罹災の傍証

この作品には、今日からみれば、不適切と受け取られる可能性のある表現がみられます。その旨をここに記載した上で、そのままの形で作品を公開します。


法隆寺再建非再建論の回顧


そこでまず問題の法隆寺の建築物についてこれを観るに、非再建論者は、これらの諸建築物が、推古天皇の三十年に創立せられた法輪寺の三重塔、及びこれと殆ど年代を同じゅうすと認むべき法起寺三重塔に比するに、様式の推移上これらよりも後るるものにあらざるが如しと言っておられるのであるが、しかしそれはただ関野君が、「後るるものにあらざるが如し」と思われただけの事で、勿論確証とすべきもの無きのみならず、余輩の研究によれば、非再建論者が以て比較の手鑑とせられた法起寺の塔は、明らかに天武天皇朝のものであり、法輪寺の塔また法隆寺罹災以後のものであるべき以上、これらと比較の上から法隆寺の堂塔を以て、推古朝のものとなすべき理由は到底見出すべからざるものであると謂わねばならぬ。否むしろこれを以て所謂白鳳期の物となすべき可能性が、濃厚であると謂わねばならぬものである。或いは金堂安置の玉虫厨子の様式が、法隆寺金堂そのものの建築様式に酷似しているの故を以て、この金堂また所謂飛鳥式なるべき事を論ずるが如きもまた同様である。この説は、この厨子を以て推古天皇の御遣物なり[#「御遣物なり」はママ]とするの前提の下においてのみ、始めてその可能性があるものであるが、実はこの厨子にそんな由緒があるべくも思われぬ。何となれば、この厨子は所謂橘夫人の厨子とともに、天平十九年の資財帳中に収められたもので、当時大安寺にもこの両者と同様の物がともに存在し、しかもそれは「人々請坐者」とのみあって、寄附者の名も、また年代もなく、すなわちそれらを特記する程の貴重なる物ではなかったのであった。けだしこの当時には他の寺院にも普通に存在した品で、おそらく仏具屋の仕入物であったに相違ない。したがってこれを以て推古朝の遣物の[#「遣物の」はママ]標準となすをえざるは勿論、それが大安寺にもあった事と合せ考えて、これまた或いは所謂白鳳期の製作であったかも図り難いのである。

 しかしながら、よしや法隆寺金堂一類の建築様式が、果して所謂飛鳥式であると仮定したところで、それが必ずしも実年代上その当時の物でなければならぬという理由は薄弱である。何となれば、たとえそこに新様式の芸術が創始せられたとしても、これが為に前代の様式の芸術が同時にことごとく絶滅すべきものではないからである。前後二種の様式が、或る年代間は並び行われたとして何処に故障があるであろう。勿論これは単なる空論である。しかし当時芸術について全然盲目であった余輩は、この空想的理論を真っ向に振りかざして、真摯なる芸術史家の推論を打破すべく、無遠慮にも繰り返し力説したものであった。

 次に非再建論者は、法隆寺に金堂内の釈迦・薬師の両本尊を始めとして、所謂飛鳥時代の遺物が甚だ多く現存しているの事実を以て、罹災の反証となさんとする。しかしこれはその一を知って未だその二を知らざるの結果であって、余輩はむしろこれとは反対に、法隆寺には天智天皇九年以前の遺物の甚だ少かった事実を以て、かえってその罹災の傍証となすべきものと考えたのである。